武士の切腹とは
様々な文献や、時代劇のTVの場面で武士が切腹する場面も見たことが有るのではないでしょうか。
映画・蜩ノ記(葉室麟)で役所広司が武士の世界の一面を描いていました。
刀を腹に突き刺し、自らの手で腹を従事に切り裂く行為は、日本の武士ならではの行為と思われている方も多いのではないでしょうか。
実際に、昭和時代に三島由紀夫氏が作った『楯の会』による市ヶ谷駐屯基地切腹事件(1970年11月25日)がありましたのでご記憶の方もいるのではと思われます。
そして、有名な『柴田勝家が切腹したときにハラワタ(内臓)を引きちぎって、秀吉に投げつけた』等の逸話があります。
その真偽はともかく、そもそも切腹はいつから始まり、武士の名誉の死に方となっていったのかご存知ですか?
切腹の期限そのものは実は平安時代にまで遡るとか、武士の時代の鎌倉で当たりではなく、貴族時代からだというのです。
ただし、近世に入るまでは、あくまで自決の手段に過ぎず、『名誉な死に方』という概念はなかったそうです。
大きな転機が訪れたのは、やはり戦国時代の備中高松城の戦いからだとか。
秀吉が、毛利方と備中高松城主の清水宗治(むねはる)の和睦の条件として、城主の自決を迫ったわけです。
そこで宗治は、水上に船を出し、その場で潔く腹を切り、介錯人によって首をはねられたのです。
これをみた秀吉や多くの武士たちが感銘し、以降『切腹は名誉な死に方』とされるようになった、と伝わっているというのです。
この切腹の仕方が江戸時代に入り、武士の処刑法として定着、作法も確立されてきたという訳ですね。
沐浴や末期酒や辞世の句を読んだり、様々な作法が見られ、切腹人が腹を一文字に切ったところで介錯人が首を落とすというのが一般的なのです。
実際には腹を切ったところではなかなか死ねないため、痛みに苦しむ姿は武士として見せられないので、『介錯を頼む』となっているのです。
自決の場合は、腹を一度刺してから抜き、頚動脈を切って死ぬ場合が多かったと言われています。
ともあれ、腹を切っただけでは失血死するまでは時間が半日以上、中途半端に切ってしまった場合は敗血症などで死ぬまで2〜3日の間、痛み苦しむ結果になるというのです。
また、介錯人が首を切る場合は皮一枚残して切るように(抱き首)、首を切り落とすことを忌み嫌う一面も有ったそうです。
切腹を命じられ、身の潔白さを表すために白衣を着て切腹した赤穂藩主浅野内庄頭など、実際には上意に刃向かうとして白衣ではないという話もあります。
死ぬことを美と考えているのは日本人だけ、それも作法など様々な方法で美として死を追求してる、不思議な文化だったのです。
その影響で、第二次世界大戦で、死んで神になる(軍神)という思想が生まれたのではないでしょうか。
私個人は、死んでしまったら何も残らない、自然に帰るのみと考えています。
日本には八百万の神思想、死んだら草木土になり、八百万の神になるという考えですね。
posted by ヒロボックリ at 21:50
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